こんにちは!
山で風景画をかいてます。アマネです。
レオナルドダヴィンチと言えば世界一知られている画家ですよね。
明家、科学者、数学者、技術者など、さまざまな分野で活躍した「万能の人」とも呼ばれています。
そんな天才、レオナルドダヴィンチ…どんな人物なのか気になりませんか?
才能に恵まれましたが実は楽勝に生きていたわけではありません。
そこで今回は「レオナルドダヴィンチについて」解説していきます。
「レオナルドダヴィンチについて知りたい!」
「どんな人物なのか」
という方におすすめの内容です。
それでは早速見ていきましょう!
レオナルドダヴィンチはどんな人物?
誕生日:1452年4月15日
没日:1519年5月2日(享年67歳)
出身地:フィレンツェ共和国ヴィンチ村
活躍した場所:フィレンツェやミラノ
作風:盛期ルネサンス
性格:万能、完璧主義
家庭:生涯独身
代表作:「モナリザ」「最後の晩餐」など
レオナルドダヴィンチの生い立ち
1452年(0才)レオナルド・ダ・ヴィンチ生まれる
1466年ごろ(14才ごろ)ヴェロッキオ工房に弟子入り
1475年(23才)『受胎告知』完成
1476年(24才)同性愛の疑いをかけられる
1483年(31才)『岩窟の聖母』製作開始。
1498年(46才)『最後の晩餐』完成
1502年(50才)チェーザレ・ボルジア付きの軍事技術者となる
1507年(55才)フランスの宮廷画家となる
1519年(67才)レオナルド・ダ・ヴィンチ亡くなる
レオナルド・ダ・ヴィンチの幼少期
レオナルドダヴィンチはフィレンツェ(イタリア)のヴィンチ村で生まれました。
ヴィンチとは彼の生まれたヴィンチ村のことを表しています。
父親と浮気相手の子供で、まともに育ててもらえませんでした。
私生児として、両親の愛を知らずに、祖父母にひっそりと育てられたと言われています。
なので、学校とかにも行かせてもらえなかったんですね。
しかし、その中で14歳のとき「絵がうまいんじゃないか?」ということでヴェロッキオの工房にいきます。
レオナルド・ダ・ヴィンチの下積み時代
ヴェロッキオ工房でレオナルドの絵がうまいということで、20歳の頃には師匠のヴェロッキオと共作で絵を描くことになりました。
その時の共作がキリストの洗礼です。
レオナルドが左下の絵の中の天使を1人描きましたが、レオナルドが描いたその天使があまりにも凄すぎて、「やってられるか!!」とそれ以降ヴェロッキオは絵を描かなくなったんですね。
「ヴェロッキオはレオナルドの絵を見て筆を折った」という伝説があるほどです。
「この若さにして、コイツは本物になるかもしれない」ということで親方(マスター資格)を貰って独立します。
それから、ヴェロッキオの工房でも働いてはいましたが、なかなかそこでは手に収まらない人材ということで、ロレンツォ・デ・メディチの「プラトンアカデミー」に入ります。
ロレンツォ・デ・メディチの「プラトンアカデミー」
プラトンアカデミーでは、ギリシャ文化やソクラテスとかの哲学についてもう一度光をあてて考えてみようという私塾みたいなものでした。
その中でもキリスト教会のストーリーを伝えていこうとしましたが、「文字が読めないのにどうやって伝える?」となったわけです。
そこで絵をモチーフにしだしたんですね。
本当はダメなんです。
なぜかというと、「神様っていうのは見えるものじゃないよね」ということで神様を絵や像にする偶像崇拝が禁止されているんです。
しかし、布教のためには仕方ないよね、ということで緩やかにキリスト教会で絵が布教されていきました。
レオナルドはそこに入りましたが、なかなか稼げません。
なぜかというと、「完璧主義者」だったんですね。
メモをたくさん書いて学んで、勉強して「こんな骨格あり得ない」、「自分の技術が中途半端な状態では絵を出したくない」ということがあったわけです。
この当時絵描きがお金持ちだった理由は、教会や貴族がその権威をPRしたいがために美しい絵を描かせたんですね。
つまり、オーダーをしているということです。
にも関わらず、「中途半端な絵を出したくない」ということで自分が納得するまで、描くので絵が仕上がるのが遅いんです。
「オーダーしてから1年、2年描いてこないぞ」ということであまり紹介されなかったんですね。
そんな中、ロレンツォ・デ・メディチから推薦状をもらい、フィレンツェからミラノに行きます。
ミラノ公がパトロン(雇い主)になる
レオナルドはイルモーロというミラノのトップの所に行って、一気に花開きます。
場所を移したらヒットしたんですね。
ミラノ公に雇われて更に技術が上達していくんです。
ここから超有名人になっていきますが、その時期はヨーロッパが争っているの時期だったので、ミラノ公もフランスに攻められてしまいます。
大貴族の軍事技師になる
レオナルドはパトロンが失脚したことで色々転々とし、その後フィレンツェに戻って大貴族の軍事技師になります。
そして絵を描く以上にこの晩年は国家顧問の相談役や建築、お芝居の監督とか色々しています。
なのであまり絵は描いていないません。
フランスの王様に気に入られる
晩年にはフランスの王様に気に入られてお屋敷を与えられます。
そこで惜しまれながらフランスで死去します。
先程も言いましたが絵はあまり描いていないんですね。
じつは13点しか残っていないんです。
完璧主義すぎて結構捨ててるらしいんですね。
まとめ
今回は「レオナルドダヴィンチについて」解説しました。
存命中から死後ずっとその評価が変わらないってすごいですよね。
残した作品は少ないにもかかわらず、面白い伝説が多いのも人気の1つかもしれません。
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